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電話が一人に一台じゃなかった時代
昭和を題材にした映画やドラマ、小説に触れていると、今との生活環境の違いに目がいきます、とくに情報通信に関して。 2017年の日本は携帯電話を1人1台以上持っていて、すぐに連絡がつく時代になりましたね。 かつては、昭和後期~平成前期は家電話しかなく、待ち合わせのときは苦慮したという話に感嘆します。しかもその前には家庭に1台すらもなかったのですから、想像もつかない生活です。
ときに憧れます。不在による、人づての伝言メッセージ。
ときに憧れます。伝言は伝わっただろうかと考える時間。
今この時間も便利なツールにどっぷり浸かっているにも関わらず、この便利さから開放されてみたいとも思うのです。贅沢なことだと自覚しています。
気軽に誰かと繋がれることが有難いと思いつつも、息苦しくも感じます。近頃は、スマホをおやすみモードや、オフラインモードにしている時間が増えました。おかげでメールやLINEの通知音に振り回されなくなりました。緊急の連絡なんてそうそうないものです。必要なときだけおやすみモードを解除すれば十分です。スマホを視界にいれなければ、尚よいです。穏やかに時を過ごすことができます。
きっと連絡をとることに苦労する程にその人のことを思う時間が増えて、伝える言葉を選んで、やっと通じたときの嬉しさが大きいのだと思うのです。
小説から垣間見た世界
『いねむり先生』にて。
とある人は日本中放浪していました。そこで、実家の家族宛に「彼から電話があったら、私に連絡するように伝えてください」とハガキが届いた――。 この場面に衝撃を感じました。
いつくるかもわからない連絡を待って日々を過ごすのはどんな気持ちなのでしょう。
伝言を頼んで、ちゃんと伝わったかどうか心配に思う気持ちはどれほどもどかしいのでしょう。
どれも私の知らない世界でした。
会いたい人にすぐ連絡がとれる現代の恩恵を受けながらも、不便な過去の、感情の揺れ動きに憧れている私がいるのでした。そう、私は感情を揺さぶられたいのかもしれない。
近頃は、LINEアプリを使用した際の「既読スルー」なるものに悩まされている人がいると聞きます。しかし私は「読んだか否か」がわかるだけ、十分幸せだと思っているのです。むしろ、既読かどうかを確認せずに「そろそろ読んだかな」と考えている方が、私は楽しいだと気づきました。(それも時と場合によりますが)
毎日狭い空を見上げ、高いビルに囲まれて過ごしていた頃
どうしようもなく森に行きたい時期がありました。森でなくてもよかったのです、例え人工的な自然だったとしても、緑の溢れる場所ならば。その日の衝動ではなく、何日も何日もその欲求を抱いていました。たまに広い空を見ると、涙が出そうになったものです。自然に癒されたかったのかもしれません。きっとそういう時期だったのでしょう。
パリに暮らすフランス人は、平日をパリで過ごし、土日は田舎の別荘(セカンドハウス)で過ごすことが珍しくないそうです。富裕層だけではなく、労働者階級でも。
日本人でも都会にいた人が田舎に行きたくなる例を見ると、都会というものは、便利であるとともに大切な何かを削っているような気がしてしょうがありません。
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番外編:
いわく、画面を見ている時間が増えるほどに、幸せが遠のいていく。
テクノロジーの職を持つ親は、子どもに電子機器を与えていない、もしくは通信機器の使用制限をしている。スティーヴ・ジョブズ然り、シリコン・バレーの優良ハイテク企業幹部然り。
シリコン・バレーのすぐそばにある学校では、中学2年まで授業でコンピュータを使わない。
参照:アダム・オルター: なぜ画面を見て過ごしていると幸せから遠のくか | TED Talk
彼らは、人間同士が向き合っている時間が大事であると理解しているからでしょうか。デジタルでは感じ得ることの出来ないものを教えるためでしょうか。デジタル機器に精通している人たちだからこそ、デメリットも理解している。故の行動だと思われます。
おわりに
家電やデジタルな製品に囲まれて、私は幸せです。なかでも、ネット環境とパソコンが身近にあったおかげで、私は持病のことを知り、調べることができました。
しかし不便であることにも憧れるというのは、人間はなんとも欲深いとつくづく思い知らされます。