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世界で日本人が一番多い過眠症、ナルコレプシーに関係あること、ないこと。

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日本人という民族についての本を読みました。

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『梅干と日本刀』『続・梅干と日本刀』

日本人が知らなかった日本人の民族的美点についての書籍

感想

「梅干と日本刀」「続・梅干と日本刀」どちらも興味深い内容が書かれていました。内容は一貫として、「日本人の行ってきたこと、誇れるべきこと、すごいところ」二作は連動していないので、どちらを最初に読んでもいいと思いますが、一作読んだらもう一作も読みたくなると思うんです。

 

~時代に行われた政策の裏側とまではいかなくても、当時の事情を知れるのも歴史を知るという観点からもとても面白いと思いました。

この二作を読んだことにより、日本人の歩んだきた歴史や庶民の精神を知りました。とても研究熱心で、貪欲で、入ってきたものはなんでも受け入れる精神でいたんですって。特に江戸幕府の政策の主は元からあった庶民の共同体に乗っかる形をとっていたものなんですって。日本人の知恵に驚嘆すると同時に誇りを持ちました。

読了したことにより理解できたことがあります。例えば本来、キリスト教の行事であったクリスマスを、同じ名のつく国民的イベントにしてしまったこと(ここ数年はアメリカの祭りのハロウィーンも)。国民の一部が、なんでも二次創作するのが好きで得意なところ。いずれも精神の柔軟さと再生産さが総動員されていることのようです。ずっと疑問に思っていたことでした。


内容の一部まとめ (続の方の内容)

まえがき

私らが、好むと否とにかかわらず、私らが日本人であることには変わりがない。そのためにも、私らが日本人とは何か、ということを知ることは、義務だとか権利だとかということのもっと前の、基礎的な教養だと言ってよい。それだのに、多くの日本人は、自分自身をあまりに知らなさすぎる。ときには、その能力を課題評価したり、あるいは過小評価したりして、日本人の虚像を信じて疑わない。とくに、この三十年、虚構な劣等感を抱きすぎてきたのではないか、そして、それが今日でも日本人の不幸につながっていはいないだろうか

 書籍内引用

※この本は昭和五十年には既刊されていたものを新書化したもの

 

日本には数学の公式が存在しなかった。その上計算は途中式が残らないそろばんで行われていたので日本人の数学的知識がどの程度のものだったのかを確認することは難しい。しかし、「数学」と定義づけられていなかっただけで、日本には複雑な計算を行っていないと難しい灌漑や建築、優れた測量技術などを行っている。このことから数学的な学問が西洋と比べて劣っていたとは言い難い。

日本と西洋を比べて、日本の方が劣っていると考えるのは偏った考え方。日本はユーラシア大陸東側の島国の地理と風土に合った高度な文明を築いていた。例えば、建造物の主が木造なのは、湿気が多い日本にはレンガ造りは合わなかったので奈良時代に淘汰されたから。そして木造よりもレンガの方が優れているという訳でもない。

 

西洋の考え「自然は押さえ込むもの」「征服するもの」

日本の考え「自然の力は抗うことができない」「自然の力を利用する、上手くかわすもの」

→温帯気候でありながら、台風や水害、地震のような自然災害に遭いやすかった。自然の力はどうあっても征服することはできないものであるという考えになった。

日本の地理的条件により、海外からの征服は受けづらいが、同時に日本人が外に出て行くことも難しい。そのために食糧は自給自足するしかなかった。そのため。ひとたびもたらされたものはなんでも試しに食べていたし、それを自らの知識を総動員して自分たちに合ったものに作り変えていった

→ スペインからコロッケがきたときは、コロッケの低温で揚げる方法を使って「がんもどき」を作りあげる。

江戸時代 三百年の歴史の中で、一揆は一度も起きなかった。

→徳川家を支持していた。倒幕運動が起きたときでも、江戸市民からそれに参加しようとする運動は起こっていない。

江戸市民には税の徴収はなかった上、飢饉や災害のときには幕府からの支援があった、これらの理由により。

日本人は奈良時代から優れた高等教育機関があった。庶民も江戸時代の農民はほとんどが字を読めた

→ 生活に必要だったため。(庄屋に取れ高を記載する、自然災害の報告など)

厳しい年貢の取立てが生産性を向上させた。

→水田を広げることはできないので、より生産性が高い稲、より栄養価が高い稲へと品種改良されていく

同じ釜の飯を食べると仲良くなれる文化

→ 供食信仰によるもの。一緒に楽しみ合ったことにより、連帯意識を確認している。西洋には理解されがたい考え

祭りは神道。法事は仏教。

日本人は無宗教であると思っている人は少なくないが、実際には初詣に行くし、葬式は仏教で行う人が多い。

日本人だけに限ってみれば、日本人の元来の宗教というのは、すべて調和のうえにあるから、生活に対して、それが阻害要因になったり、弊害を起こしたりしないかぎりは、重層的宗教を信じて、心のやすらぎを求める。それでいいのである。

→都合のいいときだけ都合のいい神や仏を拝んで心の安らぎを求めている。そのような考えであっても、心が休まるのであれば、それでも宗教の本質から見て正しいのではないか。

日本人の重層的構造性は、いつ自然災害に襲われるかわからない不安に対応するために学んだ最大の知恵ではないかと思う。硬質で強固な精神構造を持つよりも、柔軟で重層的な精神構造を持つ方が心の安定を得られる。けっして精神生活の次元の低さから出た結果ではない。


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