「気合い」への絶対的信頼の幻想
現代人は、少なくとも日本人は、「気合い」という名の思想を信仰している人が、そうでない人よりも多いと感じます。
「疲れてもう動けないよ」「気合いでなんとかなる」
「体調が悪くて、熱が38℃あるんだ」「気合いでいける」
「成績がなかなか上がらない」「気合いで頑張れ」
「眠い」 「気合いが足りない」
上記例を考えていましたら、気分が悪くなりました。
そもそも「気合い」ってなんですかね。強いて言い換えれば「頑張る」ことですか。肉体を動かすのは精神なので、その精神に向けて働きかけるのは、一種の宗教のようですね。彼らは「気合い」という絶対神を信じているのでしょうか。
気合い神を信じれば、全ての問題が解決するってやつですかね。
そんな精神論で自己に働きかけるのは否定しませんし、個人の自由です。
しかしそれを他人に押し付けるのは暴力の一種であると思うんです。
疲れきってしまった人にも、体調がかんばしくない人にも必要なのは休養ですし、自己の成績の伸び方について悩んでいる人はアドバイスか方法の見直しが必要でしょう。どうしようもない眠気に襲われている人には睡眠が必要です。いずれも、決して精神論を説いて欲しい訳ではないのです。
そして「気合い」という精神論ではどうしようもないことも存在するのです。
体調は環境や、身体を酷使していることなどが問題になっている場合もありますし、成績が上がらないのは、そもそもやり方が間違っている可能性もあります。眠いのは睡眠に対して量や質などの問題があるからです。
それらの問題を無視して全て「気合い」と言って解決しようとするのは、思考を停止した ただの暴力です。相手を抑圧することだけが目的のようにも思えます。
自分の思想を押し付けるのはやめてもらいたいと心から思います。
スポンサーリンク
気合いで解決できないこともある
上記に挙げた中で、特に私が抱えるのが睡眠の問題です。日々の睡眠の量や質が問題となって眠くなってしまう方も一定数いるのでしょうが、私の場合は「過眠症」という病気でした。
ナルコレプシーを始めとする過眠症を所持していますと、どれだけ崇高な精神論でも眠いことに対処できないのです。
そもそも過眠症というのは、脳のホルモンや神経物質の働きがない、もしくは過剰になりすぎているために生じてしまうことです(私のは覚醒させる物質が検知できない程 存在しないから)。身体の問題を「気合い」で解決出来るのならば、世界には「病」と名の付くものは存在しなくなります。
それでもなお、過眠に対して疑わしく思うのならば、やってみたらいいでしょう。
「気合い」で全てが解決するのが真実ならば、毎日「気合い」を入れるときっと減量できます。
現実はどんなに願っても、どれほど強く望んでも、無理なものはあるのです。どれだけ徳を積んだ人の言葉も身体には届きません目の前の人が訴えるその症状は一過性のものではないのかもしれないんですよ。
しかしそれを理解してくれない人は、繰り返し暴力を向けてきます。「やる気がない」「気合いが足りない」と言って我々を押さえつけようとしてくるのです。どうか「気合い」で血圧が下がってから出直してきて欲しいものです。
どうしようもないことなので、過眠の我々はたいていの時間、悩んでいます。どうしようもなく起きていられない自分に絶望もしています。悩み、悩みすぎてしまう人は自分を追いつめてしまうこともあるのです。
根拠のない言葉が他人を追い込んでしまうこともあるというのを、知っていてもらいたいものです。
繰り返しお願い申し上げます。
「気合い」への信仰を他人に押し付けるのはやめてください。精神論は自分の中だけに留めてください。
関連記事
「眠い」の価値観の違い。考え方を変えればきっと自分の世界は穏やかになれる
「眠れないよりはいいんじゃない」
— りつ@ナルコレプシー (@rit_narcolepsy) 2016年5月24日
「どこでも眠れていいね」
そう言う人もいます。
よく眠れていいと感じるのは、眠気を自分で制御・管理出来る人の範囲内でしょう。常軌を逸して、意思関係なく眠りに落ちることが羨ましいはずがないです。#narcolepsy #ナルコレプシー #過眠